1959年、両親のガレージにのこぎりとフォームの切れ端を持ち込んで以来、リッチ・ハーバーは現在に至るまで数え切れないほどのサーフボードを作ってきました。
ハーバーサーフボードは50年以上前に設立され、今もなお世界で最も歴史のあるサーフボード製造工場、兼ショップとして昔と変わらないロケーションでサーフィン業界の重要な役割をになっています。
ハーバーはある事件がきっかけとなり、サーフボードビルダーの道を進む事になります。
1959年、ガレージに保管してあったリッチ少年(当時16歳)のサーフボードが何者かに盗まれてしまったのです。
大切なボードを失い悲しみに打ちひしがれていたリッチ少年ですが、新しいボードを買ってもらうことが出来ず、自分でボードを作ることを決意します。
彼はブランクスとレッドウッドを購入し、自転車のチューブから取り出した太いゴムバンドを使いブランクスとレッドウッドを接着し、ハンドプレーンとサンドペーパーでボードのシェイプを始めました。
徐々に腕を上げていったリッチ少年はボード作りの傍ら、町で一番のリペアマンとして知られるようになり、サーフボードビルダーとして徐々に自信をつけていきました。
ラミネートも自らの手で行い、16歳になるころには、その年齢にしては十分すぎるくらい高い精度の技術を身に着けていました。
その後、リッチハーバーが作るボードは、ローカルサーファーたちの間で評判となり、彼らから大量のオーダーを受けるようになるまで、そう時間はかかりませんでした。
ある日、サーファーマガジン第1巻のページを飾ったことのある、シールビーチのローカルサーファー、Denney Buellからボードのオーダーを受けました。
地元のトップサーファーからオーダーを受けたことは大変名誉な事であり、その道で生きていく事を決断します。
1962年3月7日、満を持して、ハーバーサーフボードをオープンします。 ショップは瞬く間に大忙しとなり、急速に成長を遂げたハーバーサーフボードは1年もたたないうちに最初のロケーション(5th street and Marina Drive)から現在の329Main Streetへとに移転することになります。
オープンから約1年、オーダーをさばききれなくなったハーバーは、最高のクラフトマンDeanEliottとNEWPORTのローカルサーファー、Mike Marshallをクルーに迎えます。
破竹の勢いのハーバーサーフボードは、その後、John Grayeがシェイピングクルーに加わり、夏の間は期間限定でDale Velzyが手伝いに来たり、Dick Brewerがクルーに加わったりと、この時代に多くの経験を積み現在のハーバーの礎を築くことになります。
1964年、大きなチャンスが訪れます。
ハーバーのチームライダーRIch Chewがバナナモデルに乗り、USSAのチャンピオンに輝いたのです。 彼の優勝は当時勢いがあったハーバーをさらに高いところまで昇る上昇気流へと導きます。その後優秀なライダーが多く集まり、様々な大会で活躍したことにより、ハーバーは一躍トップボードメーカーへと上り詰めます。
1967年、サーフボード業界に大きな変化が訪れます。 ショートボード革命です。
サーフボードは一気に短くなり、ロングボードのブームも下火となり、ほとんどのシェイパーはシェイプをやめ他の仕事に就きました。
そんな時代の波にも流されず、リッチハーバーはロバートオーガストを雇い新しいショートボードの開発に取り組みます。
70年代はサーフィン業界も激動の時代となり、試行錯誤を繰り返します。
周りの仲間が流れについてゆけず次々とドロップアウトしていく中、リッチは新しいロッカーやアウトラインを試しながら一生懸命新しいボードデザインや技術の開発に取り組みました。
今の時代、サーフボードに関しての資料は世の中にあふれていますが、当時は全ての取り組みが新しい取り組みで、とても苦労したようです。
ショートボード革命後、激動の時代を経て、再びロングボードの波がやってきました。
90年代に入るとロングボードのコンテストもハイパフォーマンススタイルが主流となり、時代に合わせて次々とオールラウンドやハイパフォーマンスタイプのボードが開発されました。
このようにハーバーサーフボードは長きにわたる経験をベースに、新しい技術とアイディアをフルに活用し、日夜最高のボードを作るための努力を今日まで続けて来たのです。
そのためボードのラインナップはクラシックからモダンなハイパフォーマンスタイプまで幅広く、どのモデルも最高の機能を発揮することを重視して作られていることが特徴です。
2005年12月、サーフィン業界に激震が起こりました。
突如としてクラークフォームがその長い歴史に幕を閉じたのです。
サーフボードメーカーの大半がフォームの発注をかけていたシェアNO.1の工場が何の前触れもなく廃業し、
多くのサーフボードビルダーが路頭に迷いました。
2006年クラークフォームが廃業した当時、ハーバーはまだ150本のブランクスをストックしていましたが、オーナーである、ゴードン・クラークとリッチ・ハーバーは長年にわたり良きパートナーであったため、さらに120本ものフォームを最後のデリバリーとして届けてくれました。
そのため、他のシェイパーが路頭に迷うなか、ハーバーサーフボードはフォームを欠品することなく、安定したボード供給を継続することが出来ました。
リッチハーバーのゴードンクラークとの一番の思い出は、クラークフォームで自分のPlugを作ってもらえたことです。plugとはBlanksを成型するためのセメントの型で、その中で薬品が反応をおこしブランクスが成型されます。
ただし、このPlugを作ることを許されるのは星の数ほどいるシェイパーの中でほんの一握りの人に限られているのです。
したがってクラークフォームでPlugを作るという事は、シェイパーにとって、大変名誉な事なのです。
2009年はハーバーサーフボード50周年の年でした。
50周年記念モデルが限定で作られました。コレクター垂涎のバルサボードも5本限定で作られ、それらのボードは10000ドルで販売され、すぐに完売となりました。
2013年カート・オーグスバーガーとスティーブ・ファーレルがハーバーのスタッフとして加入しました。2人はジョー・クイッグとマイクマーシャルからシェイプを伝授された職人で、現在ハーバーサーフボードの多くのボードを手掛けております。
しかし2021年7月11日、リッチハーバーはシールビーチの自宅で家族に見守られながら天国に旅立ってしまいました。享年77歳。
『私たちの創設者であり、アイコンであり、父であり、友人であり、良き師であり、それ以上の存在であったリッチが旅立ってしまいました。昨日の夜、自宅にて多くの愛に囲まれながらリッチは永眠いたしました。私たち家族はほとばしる愛と物語に触れることができました。彼がいないことはとても深い悲しみとなりますが、彼は恐らく天国のどこかで彼のサーフショップを構え、フォームを削っているんだろうと思います。私たちは彼のすべてのことに感謝するとともに、これからもハーバーサーフショップの物語が続いていくことを彼に伝え続けていきたいと思っています。』
リッチハーバー亡き後も、娘のメリッサを中心に、カート・オーグスバーガー、スティーブ・ファーレルがリッチハーバーの魂を受け継ぎ、ハーバーの伝統は守られ、そしてしっかりと受け継がれています。
またリッチハーバーの多大なる功績は今後も多くのサーフインダストリーに影響を与え続けていくことでしょう。